日曜日、カトリック教会のミサを終えて家に帰ってきた。
今日の神父様のご説教は「三位一体の主日」についてだった。三位一体。NHKニュースでよく聞く「国庫補助負担金改革、税源移譲、地方交付税改革を一体で進める」という、あの言葉ではない。カトリックで言う三位一体とは「父と子と聖霊は、ペルソナは違えどすべて同じ一つの神様である」という神様の本質のことだ。
「で、お父さん。さっきからノートに何をカリカリ書いてるの?」
リビングで麦茶を飲んでいた妻が、メガネの奥から怪しむような視線を向けてくる。
「我が家の、いや、私という人間の『三位一体』について考えていたのだよ」
胸を張って答えると、妻は「また始まった」という顔で小さく息を吐いた。
私という人間を構成する本質。それは読書体験の中にあった。
思い返せば、私が愛読してきた本には共通点がある。斉藤洋さんの『ペンギンたんけんたい』や椎名誠さんの『あやしい探検隊』が持つ、「大真面目だからこそ漂うおかしさ」。野田知佑さんの大河下りやキャンプのエッセイに見られる「日常や自然の中に愉快さを見つける眼差し」。そしてマイケル・モーパーゴの児童文学が教えてくれた「鮮やかな伏線回収と意外な結末」。
これだ。「まじめな中のおかしさ」「日常の中にすべてを見つける」「意外な答えが待っている」。この三つこそが、私の『三位一体』なのだ!
「ねえ、お父さん。その立派な三位一体の境地に達したところで大変申し訳ないんだけど」
妻がテーブルの上にある空の麦茶ポットを指さした。
「冷蔵庫の麦茶、最後の一杯を飲んだの誰だっけ?ちゃんと次を作っておくのが我が家の『愛と平和の教義』じゃなかったかしら」
「あ!」
まじめな顔で深遠な真理に思いを馳せていた男が、一瞬で「麦茶作り係」に陥落した瞬間である。まさに大真面目な中の、ちょっと情けないおかしさ。
私は慌てて台所に立ち、ヤカンに水を入れた。二十代の頃、バイト先で野田知佑さんの本に感化され、行ったこともないカナダのユーコン川やマッケンジー川に思いを馳せ、本当に現地へ飛び出してしまったあの行動力。あの情熱は今、家庭という大自然の中で「完璧な濃さの麦茶を作る」という冒険に向けられている。
我が家の日常は、遠くの大河を下るような壮大な冒険ではないかもしれない。けれど、冷やしておいたパックを忘れて濃くなりすぎた麦茶を前に「これぞ濃密な人生だね」と笑い合うような、小さな発見に満ちている。
「お父さん、麦茶できたら氷も補充しておいてね」
「御意」
児童書を書くという夢も、私の『三位一体』があればきっとカタチになるはずだ。真面目に、愉快に、そして最後には思わぬ温かい答えを用意して。
「はい、麦茶できたよ」差し出したグラスを受け取りながら、妻がふっと笑った。日常の伏線は、今日もリビングのあちこちに転がっている。






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