「お父さん、ちょっと聞きたいんだけど」
夜の10時過ぎ。リビングのテーブルでスマートフォンから流れる聖書の音声朗読に耳を傾けながら、涙ぐんでノートに何かを激しく書き走らせていた私に、妻が温かいほうじ茶を差し出しながら声をかけてきた。
「作業着からほのかに海の香りがするのは置いといて、なんで牡蠣剥き用のナイフの横で、感動の涙を流しながら、ノートにパウロと俺の歯車が回り始めたって書いてあるの?」
「ふふふ、妻よ。よくぞ聞いてくれた」
私は手ぬぐいで目元を拭い、ほうじ茶を一口すすってから熱く語り始めた。
「今日、作業所で牡蠣部の手伝いをしながら日本語の聖書朗読を聞いていたのだよ。そうしたらテモテへの手紙一のところで、胸に迫るものがあってね!かつて迫害者だったパウロがイエス様と出会ってガラリと変わったように、私の人生の歯車も今、突然回り始めたのだよ!まさにスタートは突然やってくるのだ!」
「へぇ。牡蠣の殻を剥きながら、パウロと同格レベルの開眼をしちゃったわけね」
妻はほうじ茶をすすりながら、じとーっとした目を向けた。
「でもお父さん、映画ダ・ヴィンチ・コードに影響されて聖書は暗号だ!って言い出したり、YouTubeの解説動画を見て最初から最後まで全部読まないと暗号が解けない!って形から入ろうとしてない?」
「ぐっ!それは聖書の奥深さを探求しようという純粋な知的好奇心なのだよ!」
「はいはい。パウロみたいに改心して毎日聖書日記を書くのは素晴らしいことだけど、スマホで朗読を聞くだけで満足して、肝心の聖書を毎日開く作業を後回しにしてないかしら?」
痛いところを突かれ、私は言葉に詰まる。
「小さな発見を繰り返して理解するって言ってる先から、大それた大発見ばかり狙おうとするのはお父さんの悪い癖よ。突然歯車が回り始めたって言うなら、まずは足元の歯車から回したらどう?」
「足元の歯車?」
妻はニコニコしながら、私が脱ぎ捨てた作業用ジャンパーと、テーブルの端に置きっぱなしのイヤホンを指さした。
「牡蠣の匂いが染みついたジャンパーを洗濯機に入れて、イヤホンを充電器につなぐ日常の改心から始めてちょうだい。パウロだって、そんな初歩的な片付けを放り出して伝道旅行には行かなかったはずよ」
「御意」
パウロのような劇的な変化に憧れつつも、己の形から入るクセを見抜かれて苦笑いする私。
妻という身近な導き手の突っ込みに感謝しつつ、私はノートを閉じ、我が家の平和と小さな日々の前進のために、静かにジャンパーを抱えて洗面所へと向かうのだった。





コメント