「お父さん、ちょっと聞きたいんだけど」
夜の10時過ぎ。リビングのテーブルで旧約聖書の分厚い本と図鑑を広げ、「ハンムラビ王=ニムロド説」「目には目を」とノートにデカデカと書き込んでいた私に、妻が温かいほうじ茶を差し出しながら声をかけてきた。
「さっきから目には目を!とか兄弟の言っていた恐ろしい復讐!とか、物騒な言葉を呟きながらノートを黒く塗りつぶしてるけど、一体何が始まったの?」
「ふふふ、妻よ。よくぞ聞いてくれた」
私はほうじ茶を一口すすり、学者のような顔つきで腕を組んだ。
「先日、私の兄弟のひとりに聖書で信じがたい記述は?と質問したら、復讐の方法が書いてあるところ、と言われてね!調べてみたら、あの有名な、目には目を歯には歯を、の同害復讐法のことだったのだよ!やられた以上の被害を与えてはいけないという、古代の過剰な仕返しを防ぐ愛の法律なのだが、彼には野蛮に映ったのかもしれないな」
「へぇ。過剰な仕返しを防ぐ法律ねぇ」
妻はほうじ茶をすすりながら、じとーっとした目を私に向けた。
「で?その過剰な仕返しはダメという古代の知恵を熱く語っているお父さんは、小学生のころ書道教室で何をしたのかしら?」
「ぐっ!な、なぜそれを!」
痛いところを突かれ、私は言葉に詰まる。
「お兄ちゃんから手に墨を塗られたからって、顔に墨を塗り返して大喧嘩。結局ふたり揃って書道教室を出禁になった事件でしょ?最後のコマでお義母様がお湯と石鹸(オユトセッケン)で落ちるかしらって血の涙を流しながらセーターを洗っていたという…」
「うぐぐっ!あれこそが倍返しは当事者以外にも被害(母の洗濯)を及ぼすという、我が人生最初の深い学びだったのだよ!」
「学びの代償が大きすぎるのよ。ハンムラビ法典を語る前に、当時の自分に墨には墨を(ただし手の甲まで)って教えてあげたかったわね」
妻の容赦ないツッコミに苦笑いするしかない私。
「まあでも、右の頬を打たれたら左も向けなさいというイエス様の教えは、仕返しの連鎖を止める究極のアイデアよね。で、お父さん、そのやられても微笑み返す練習、今ここで試してみる?」
「えっ?」
妻はニコニコしながら、テーブルの上に散らばった墨の汚れ(のように見える木くずと私のメモの山)を指さした。
「さっきからノートに夢中で、お茶の湯呑みを倒しかけて私のランチョンマットを汚したでしょう?私が今からちょっと怒るけど、左の頬を向けてごめんなさい、すぐに拭きますって愛をもって言えるかしら?」
「御意!復讐も言い訳もせず、直ちに雑巾をもって参上いたします!」
古代の法律や聖書の深遠な教えに感嘆しつつも、自分の幼き日の「墨塗り合戦」を思い出して反省する私。
妻の愛あるツッコミに感謝しながら、私は雑巾を手に取り、平和と和解の第一歩として、静かにテーブルを拭き上げるのだった。





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