「お父さん、ちょっと聞きたいんだけど」
夜の10時過ぎ。リビングのテーブルでノートを広げ、「吉川のおじちゃん」「あまーい、あまーい、コーヒーパン」「デパートでの迷子」「おばちゃんと一緒に寝込んだ日」「すーっと滑り出す優しさのかたまり」と、幼少期の温かくも切ない思い出のメモを真剣な顔で書き連ねていた私に、ミクが温かいほうじ茶を差し出しながら声をかけてきた。
「さっきから男と男の秘密のあさごパン!とか優しさのかたまりは滑り出してもなくならないのだ!って、一人で何の思い出回想サミットを開いているの?」
「ふふふ、妻よ。よくぞ聞いてくれた」
私はほうじ茶を一口すすり、少年時代の遠い記憶を慈しむノスタルジックな哲学者かのような眼差しで語り始めた。
「幼少期の吉川のおじちゃん・おばちゃんとの思い出と思索について語っていたのだよ!甘いコーヒーに浸したトーストをこっそり分けてもらったこと、デパートで迷子になって大騒ぎしたこと、そしておじちゃんが亡くなった日、悲しむおばちゃんの横で一緒に布団に潜り込んだこと。人は去っても、注がれた優しさのかたまりは心の中に残り続け、決して消えることはないのだよ!」
私が熱っぽく「思い出の尊さ」と「受け継がれる優しさ」について語り尽くすと、妻はほうじ茶をすすりながら、じとーっとした目を向けた。
「へぇ。注がれた優しさのかたまりは心に残り続け、決して消えることはないねぇ」
「うむ!人の温もりや愛された記憶こそが、人間を形作る一生の財産なのだよ!」
「じゃあ、お父さん。さっきから子どもの頃に注がれた愛を思い出したら、無性に甘いものが食べたくなったって言いながら、私が明日のおやつ用に楽しみに買っておいた高級エクレアを勝手に冷蔵庫から出して、ほうじ茶と一緒にペロリと完食したのは誰かしら?」
「えっ?」
妻はニコニコしながら、テーブルの端に転がっているエクレアの空き袋を指さした。
「優しさのかたまりをノートに熱弁する前に、目の前の妻の楽しみにしていたおやつを黙って横取りする自分の食い意地をどうにかしたらどうなの?男と男の秘密どころか、ただのコソコソ食いじゃないの」
「ぐっ!な、なぜそれを!あれは吉川のおじちゃんのあまーいコーヒーパンの記憶が蘇り、ノスタルジーに抗えなくなった不可抗力であって!」
痛いところを突かれ、私は大汗をかいて言葉に詰まる。
「言い訳しないの!幼少期の思い出に浸るのもいいけれど、人のエクレアを奪っておいて優しさは消えないなんて言っても説得力ゼロよ。明日の帰りに倍にして買って返しなさいな」
妻の容赦ないツッコミに、私は完全に降参した。
「御意。ただちに己の卑しさを深く反省し、明日は私の小遣いから最高の特大エクレアを二個購入し、妻という尊き存在へ愛と感謝を込めて献上してまいります」
幼き日の甘く切ない思い出と人々の温もりに思いを馳せつつも、エクレアのつまみ食いを「ノスタルジー」で押し通そうとした浅ましさをあっさり見抜かれて苦笑いする私。
妻の愛あるツッコミに感謝しながら、私はノートを閉じ、我が家の平和とおやつ補填の約束を守るべく、静かにほうじ茶を飲み干すのだった。





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