サンタ第2工房の午後は、木の香りと静かな光がゆっくり混ざり合う時間だった。昨日、タダシが語った「土手50m炎上事件」は、ミクさんの静かな理解とともに、工房の空気を少しだけ深くした。
今日も扉を開けると、ミクさんは作業台の前で木片を磨いていた。
「こんにちは、タダシさん」
その声は、昨日よりも少しだけ柔らかかった。タダシが作業台の横に立つと、ミクさんは木片を置き、
静かに言った。
「タダシさん。もし、昨日の続きがあるなら、聞かせていただけますか」
その目は、かわいいを求める目ではなく、その人の生きてきた道を知りたいという強いまなざしだった。タダシは、ゆっくり口を開いた。
帰国子女だらけの大学で、英語がまったくできない男
「ミクさん。私、大学時代、英語がまったくできなかったんです」
ミクさんは少し驚いたように目を開いた。
「そうなんですか?」
「はい。帰国子女が多い大学だったんですが、私は、英語の文法がまったく分からなくて。SVOCとか、前置詞とか。どうしても頭に入らなかったんです」
ミクさんは静かにうなずいた。
「文法って、急に難しくなりますよね」
タダシは続けた。
「それで、英語は覚えるしかないんじゃないかと思って。受験のときは、古文も漢文も全部暗記して
英語も暗記しようとしたんです」
ミクさんは、少しだけ笑った。
「暗記で乗り切ろうとしたんですね」
「はい。英語の歌詞なら覚えやすいと思って、受験勉強は、英語の歌を歌って乗り切りました」
ミクさんは、口元を押さえた。
「それは、少し楽しそうですね」
英語の宿題で気づいた絶望的な現実
「大学に入ってからも英語の授業があって、本を一冊読んで、感想を英語で書く宿題が出たんです」
ミクさんは息をのんだ。
「それは大変ですね」
「はい。そのとき思ったんです。英語って、日常で使わないと覚えられないんじゃないかって。アメリカの子どもたちは、毎日英語を使っている。それって、すごく恵まれているなって」
ミクさんは静かに言った。
「環境って、大きいですよね」
海外生活への憧れと、貧しさと、偶然の扉
「留学したかったんですが、家は貧しくて、そんな余裕はなくて。でも、近所の人が海外でボランティアする方法があるよと教えてくれて。カナダの障がい者グループホームを紹介してくれたんです」
ミクさんは目を丸くした。
「ボランティアで、海外へ?」
「はい。留学だったら試験で落ちていたと思いますが、ボランティアは一発採用でした。それで、1年間休学してカナダで働くことになりました」
ミクさんは、胸の前で手をぎゅっと握りしめた。
「すごい行動力ですね」
しかし、英語はまったく上達しなかった
「でも。私は日本人的なワークホリックになってしまって。仕事ばかりして、コミュニケーションを取ることを忘れてしまったんです」
ミクさんは静かに目を伏せた。
「真面目すぎたんですね」
「はい。ドイツから来た同僚や、フランス語圏から来た同僚は、どんどん英語が上達していくのに
私はまったく話せなくて」
ミクさんは息をのんだ。
「つらかったでしょう」
「ミーティングの内容も分からなくて。あとからドイツ語が母国語の同僚に、今日の話、何だった?と聞いていました」
ミクさんは、しばらく黙っていた。そして、ゆっくりと口を開いた。
ミクさんの反応は「かわいい」ではなかった
「タダシさん。それはかわいい話ではありませんね」
タダシは身構えた。
(怒られるかな)
しかしミクさんは、静かに、強く言った。
「それは、努力の話です」
タダシは息をのんだ。ミクさんは続けた。
「環境が違う中で、言葉も文化も違う中で、それでも1年間働き続けたんですよね。それは、恥ではなくて、生きる力です」
タダシは胸の奥が熱くなった。ミクは、木片をそっと置きながら言った。
「英語が上達しなかったことより、その環境で逃げずに働いたことのほうが、ずっと価値があります」
タダシは、ゆっくりうなずいた。
「ありがとうございます」
ミクは静かに微笑んだ。
「タダシさんの話は、そのときの気持ちが伝わってきます。私はそういう話が好きです」
その言葉は、工房の木の香りよりも深く、タダシの胸に沈んだ。
タダシの胸に落ちたもの
タダシは思った。
(ミクさんは、私の恥を笑わない。俺の生きてきた道として受け止めてくれる。)
それは、誰にもされたことがない優しさだった。
その日工房を出るとき、タダシの胸の奥は、仙台の光よりも深く、静かに温かかった。ミクさんの言葉が、タダシの恥を努力の証に変えた日だった。


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